CHRONICLE OF VIOLET
アスフェル王国北部戦線。
灰色の空の下で、アスフェル騎士団と科学大国ヴァルゼンの軍勢がぶつかり合う戦場に、
魔物を率いる青年ドロシーが姿をあらわす──。
目次
第一章 灰色の空に現れた影
アスフェル王国北部戦線。灰色の空を焦がし、砲煙と悲鳴と金属音が混ざり合う地獄の最前線。
科学大国ヴァルゼンの機械化兵たちが無機質な足音で押し寄せ、アスフェル騎士団は必死に迎え撃っていた。
「──前列、下がるなッ! まだ持ちこたえられる!」
小隊長ロアン・ゼルファードが叫ぶ。
だが敵は強すぎた。
灰色の全身鎧。その中心で巨大な斧を構えるひときわ大柄な影──セルドラ・フォルディス。
一歩踏み込むだけで兵が吹き飛ぶ。斧は重いはずなのに、動きに一切の無駄がない。
剣士たちは間合いが読めず、防御が遅れ、次々に倒れていく。
ロアンも歯を食いしばった。
(……なんて強さだ。常識が通じない)
部下が焦りの声を上げる。
「小隊長! 後退を! これ以上は──」
「まだだ! アスフェルは、俺たちが守る!」
しかし現実は残酷だ。前列が崩れ、ヴァルゼン兵が雪崩のように押し寄せてくる。
セルドラの斧が振り下ろされれば、それだけで数人の騎士が吹き飛ぶ。
そのとき──。
遠方に“別の影”が現れた。
灰色の煙の奥、地響きとともに大軍勢が進軍してくる。
ロアンは息を呑む。
「……魔物だ。魔物の軍勢だ……!」
兵たちはざわめいた。
「敵か? 味方か? なぜここに……?」
魔物たちの先頭に立つのは、黒いフードに身を包んだ青年。
そのすぐ横を、足音軽くついていく少女。腰まである薄緑の髪、小さな三つ首の魔獣を胸に抱いている。
魔物を率いる青年など見たことがない。
黒いフードの青年は歩を止め、短く言う。
「アスフェル騎士団。援軍に来た。理由を語る時間はないが──。」
ロアンが叫ぶ。
「ま、魔物を率いる者の言葉など信じられるか!」
「信じなくていい。ただ──道を開けろ。あいつを止めるのは、僕の役目だ。」
視線の先には、セルドラが無言のまま斧を構えていた。
ロアンの背筋が震える。青年の穏やかな声の奥に、鋭い“意志”があった。
薄緑の髪の少女は三つ首の魔獣の頭を撫でながら、軽く笑う。
「あの鎧の人、放っておくと危険だよ。……この人は、止めに来たの。」
その瞬間、魔物たちが左右に散開し、アスフェル兵の側面へ突撃していたヴァルゼン兵を押し返す。
青年は静かに歩き出し、セルドラと向き合った。
ロアンの部下が叫ぶ。
「小隊長! どうしますか!?」
ロアンは剣を握りしめ、苦渋の決断をする。
「全員、後退して陣形を立て直せ! ……彼らに道を譲る!」
戦場の中心で、黒いフードの青年とセルドラ・フォルディスが向き合う。
灰色の空の下、二つの影が静かに対峙した。
そして、地面を震わせる衝撃とともに──その戦いが始まる。
金属がぶつかる音が、戦場の喧騒を一瞬だけ裂いた。
黒いフードの青年が踏み込むと同時に、セルドラの斧が横薙ぎに振るわれる。重い一撃──だが、速い。
青年は半歩だけ身体を引いた。斧の刃は避けたはずだった。
それでも、胸元の布が裂ける。
「……っ」
ロアンは目を見開いた。
(今のは……届いていないはずだ)
セルドラは動かない。ただ、斧を構え直すだけだ。
青年は一度、深く息を吐いた。
(間合いが……ずれている)
見た目は人と変わらない。だが、踏み込みの距離と刃の届く範囲が、微妙に噛み合わない。
青年は剣を構え直し、今度は踏み込む。刃が鎧の脇へと滑り込む──はずだった。
だが、セルドラとの距離が、わずかに狂った。
ほんの一瞬。ほんの指一本分ほどの差。
それだけで、剣先は空を切った。
直後、巨大な斧が唸りを上げて振り下ろされる。
青年は地面を転がるように後退し、衝撃をかわした。地面が砕け、土煙が跳ね上がる。
ロアンの喉が鳴った。
(――化け物め……)
セルドラは追わない。斧を下げたまま、青年を見据えている。
周囲では、魔物たちがヴァルゼン兵の側面を崩していた。陣形が乱れ、機械化兵たちが次々に押し返されていく。
セルドラは、わずかに視線を戦場全体へ向けた。
──不利。
判断は一瞬だった。
「……撤退だ」
低く、はっきりした声。
周囲のヴァルゼン兵が動揺する。
「セルドラ殿!?」
「陣形が崩れている。これ以上の消耗は無意味だ」
セルドラは青年に向き直る。
二人の視線が交差する。
青年は剣を下ろさない。だが、追撃もしなかった。
セルドラは踵を返し、煙の向こうへと歩き出す。
ヴァルゼン軍は次々に後退を始め、やがて灰色の霧の中へと消えていった。
戦場に、わずかな静寂が戻る。
ロアンは息を呑んだ。(あの化け物が……引いた?)
その瞬間、背後から声がした。
「今は、追わない方がいい。」
振り返ると、黒いフードの青年がそこにいた。剣を下ろし、敵意もなく、ただ静かに立っている。
「理由を聞かせてもらおうか。」ロアンは剣を構えたまま言った。
青年は一拍置いてから、答えた。
「戦い続ければ、アスフェルはここで終わる。
でも、止めれば――まだ道はある。」
「道だと?」
「三つの国が、同じ敵を見るための道だ。」
ロアンの視線が、自然と戦場の向こうへ向く。そこには、まだ煙を上げるヴァルゼンの軍勢と、そして、魔物たちの影があった。
「……話がある。」
青年はそう言って、フードの奥からまっすぐにロアンを見た。
「ここで剣を振るうより、
生き残るための話をしよう。」
戦場に戻った静けさは、決して平和の兆しではなかった。
それは、嵐の合間に訪れる、短い空白にすぎない。
この戦争は、突然始まったものではない。
科学大国ヴァルゼン。
機械と論理を力とし、白と灰の装備で統一された軍を持つ国。
人の手足を補う装甲、思考を模した演算機、
そして、感情を排した戦い方。
その進軍は、これまで止められたことがなかった。
対するアスフェルは、騎士の国だ。
剣と誇り、忠誠と覚悟を何より重んじる。
かつては最大の領土を誇ったが、
今は北から、ヴァルゼンの侵攻を受け続けている。
ロアンが立つこの戦線も、
もはや「守り切れるか」ではなく、
「いつ崩れるか」を数える段階に入っていた。
さらに東には、魔法の国イゼラ。
南には、オルト=ヴェイドの大災厄から逃れた人々が築いた
レヴナス族領がある。
だが――
それぞれの国は、まだ正式な同盟を結んではいない。
互いに警戒し、疑い、
「次に狙われるのは自分かもしれない」と考えながら、
それでも動けずにいる。
そんな膠着を、
今日、この戦場で破った存在がいる。
魔物を率いる黒いフードの青年。
そして、彼の隣に立つ少女。
彼らは、どの国の旗も掲げていなかった。
ロアンは、無意識に拳を握る。
(……この出会いが、
戦争よりも厄介なものを呼び込む。
そんな予感だけが、消えなかった)
答えは、まだわからない。
だが一つだけ確かなことがある。
この戦場は、
ただの国境戦ではなくなった。
第二章 人ならざる者
戦場の喧騒が、ようやく遠ざかり始めていた。
折れた槍、砕けた装甲、まだ熱を残す機械兵の残骸。
アスフェルの騎士たちは警戒を解かぬまま、距離を保って魔物たちを見ている。
その中心で、ロアンは一人の青年を見つめていた。
黒いフードを被ったまま、静かに立つ男。
剣を下げ、敵意もなく、だが一歩も引かない。
「……名を聞いていない」
ロアンがそう言うと、青年は少しだけ視線を落とした。
「必要なら」
そう前置きしてから、彼は両手を上げ、
ゆっくりとフードに指をかけた。
布が外れ、風に揺れる。
その瞬間、ロアンは言葉を失った。
露わになったのは――人の形をしていながら、人ではない肌。
全身が、深い紫に染まっている。
血の色でも、影でもない。
まるで夜そのものを焼き付けたような色だった。
「……っ」
周囲の騎士たちがざわめく。
「魔物……?」
「いや、人型だ……」
青年は、動じない。
視線を逸らすことも、言い訳をすることもなく、
ただ真正面からロアンを見る。
「僕は、ドロシー・ドロン」
その名を告げる声は、驚くほど穏やかだった。
「君たちが“敵”と呼ぶものと、
“味方”と呼ぶもの、そのどちらにも属していない」
助けられた。
確かに、この男がいなければ、戦線は崩壊していた。
だが――
この存在は、アスフェルの常識の外にいる。
「……なぜ、助けた」
ロアンは慎重に問う。
ドロシーは一瞬だけ、空を見上げた。
灰色の雲の向こうを、測るように。
「このままなら、国が滅ぶからだ」
「アスフェルが、か?」
「違う」
ドロシーは静かに首を振った。
「世界が、だ」
その言葉に、ロアンは息を呑んだ。
軽口でも、誇張でもない。
ただ事実を告げているだけの声音だった。
「……俺たちの王に会ってもらう」
ロアンは、剣を鞘に収めた。
「それが、正しいかどうかはわからない。
だが――恩を受けたまま、背を向けることはできない」
ドロシーは小さく頷いた。
その横で、薄緑の髪の少女が、
小さな三つ首の魔獣を胸に抱いたまま、わずかに微笑んだ。
「……大丈夫。たぶん、驚くだけだから」
その曖昧な言葉に、ロアンは胸の奥がざわつくのを感じた。
だが、もう引き返せない。
この日、アスフェルは知ってしまったのだ。
人でも、魔物でもない“何か”が、
確かに世界の行く末を見据えていることを。
王都へ向かう街道は、戦場とは別の意味で重苦しかった。
砕けた石畳。
焼け焦げた家屋。
道の脇には、避難しきれなかった人々の痕跡が残っている。
ヴァルゼンの進軍は、前線だけでなく、
確実に“国の奥”へと爪を伸ばしていた。
ロアンは馬を進めながら、無言で周囲を警戒していた。
(……王に、どう説明すればいい)
隣を歩くのは、紫の肌を持つ青年。
そして、その後ろを静かに進む魔物たち。
あり得ない光景だ。
だが、戦場で命を救われた事実だけは揺るがない。
騎士の一人が、小声で囁いた。
「……本当に、王城まで連れて行くんですか」
「命令だ」
ロアンは短く答えた。
それ以上、言葉は続かなかった。
前方では、黒いフードの青年――ドロシーが、
周囲の視線を気にする様子もなく歩いている。
警戒も、虚勢もない。
まるで、この国の行く末を“知っている”者の歩き方だった。
ふと、ロアンは気づく。
魔物たちが、民家の近くでは必ず足を止めている。
瓦礫を踏まないように。
倒れた柵を避けるように。
(……統率が取れすぎている)
普通の魔物ではない。
それだけは、はっきりしていた。
その横で、薄緑の髪の少女が小さな魔獣を抱いたまま、
街の様子を眺めている。
哀れむでもなく、怖がるでもない。
どこか距離を置いた、観察するような目。
ロアンは意を決して声をかけた。
「……君たちは、どこから来た」
ドロシーは歩みを止めずに答える。
「特定の国じゃない。
強いて言うなら……“ここじゃない場所”だ」
はぐらかしているわけではない。
だが、すべてを語る気もない。
ロアンはそれ以上、踏み込まなかった。
王城の尖塔が見え始めた頃、
城門の前ではすでに騎士たちが陣を敷いていた。
弓が引かれ、槍が構えられる。
当然だ。
魔物を率いた得体の知れない存在を、
無警戒で迎え入れるわけがない。
ロアンは馬から降り、一歩前に出た。
「俺が責任を持つ。
この者は、アスフェルを救った」
ざわめきが広がる。
そのとき、ドロシーが一歩だけ前に出た。
武器は下げたまま。
だが、退く気もない。
「王に会わせてほしい」
静かな声だった。
「選択を誤れば、
次に滅びるのは、この国じゃ済まない」
その言葉に、城門前の空気が張りつめる。
ロアンは、強く息を吐いた。
(……もう戻れないな)
この瞬間から、
アスフェルは剣では測れない存在と歩み始める。
それが希望か、
それとも世界を壊す引き金か。
答えはまだ、
灰色の空の向こうにあった。
第三章 神の名のもとに
王城の会議室は、重苦しい沈黙に支配されていた。
厚い石壁に囲まれた円卓の間。
鎧を脱がぬままの将軍たちと、疲労を隠しきれない貴族たちが並び、
その中央に、アスフェル王が静かに座している。
ロアンは、膝をついたまま報告を続けていた。
「――北部戦線は、事実上の崩壊寸前です。」
「ヴァルゼンの機械兵は、補給を待たずに進軍を続けています。」
ざわめきが広がる。
「無謀だ」
「兵站を無視した戦争など長くは続かん」
「それとも、何か裏があるのか……」
王はゆっくりと視線を上げた。
「ヴァルゼンは、なぜそこまでして我々を攻める?」
その問いに、即答できる者はいなかった。
ロアンは、視線を伏せる。
これまでの戦争は、領土や資源を巡るものだった。
だが今回の侵攻には、それが見えない。
ただ――
「……彼らは、“聖地”を守ると言っています」
ロアンの言葉に、空気が張りつめた。
「聖地だと?」
「どこに、そんなものがある」
「ヴァルゼン領北東部。」
「白と灰の機械に囲まれた、立ち入りを禁じられた土地です」
将軍の一人が顔をしかめた。
「噂は聞いている。」
「司祭が治める、神の降臨を待つ地……」
ドロシーは、その言葉を聞いて初めて口を開いた。
「“待っている”のは、神じゃない」
会議室の視線が、一斉に彼へ向けられる。
紫の肌。
人でも魔物でもない存在。
だが、その声には、戦場で聞いたのと同じ確信があった。
「彼らは信じている。」
「空から与えられる機械を、“神の恩寵”だと」
ざわめきが一段、強くなる。
「恩寵だと……?」
「そんな馬鹿な話が――」
「馬鹿な話だからこそ、止められない」
ドロシーは、静かに言った。
「信仰は、理屈では折れない。」
「ヴァルゼンは、戦争をしているつもりじゃない。」
「“迎える準備”をしているつもりなんだ」
王は、ゆっくりと息を吐いた。
「……迎えるために、国を滅ぼすと?」
「必要なら、そうする」
あまりにも淡々とした答えに、
誰も反論できなかった。
ドロシーは、最後にこう告げる。
「時間がない。」
「ヴァルゼンが次に動けば、三国は個別に潰される。」
「選択肢は一つしかない」
「――今、ここで結集して立ち向かうか。」
「それとも、神の名の下に滅ぶか」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
第四章 王の影
ヴァルゼン王都は、白と灰で磨き上げられていた。
戦場の泥と血が鎧に残っているというのに、城の床は鏡のように光り、足音すら整列して聞こえる。
――勝っている国の空気だ。
北部戦線は押し切れていない。
だが、押されてもいない。
ヴァルゼンは一歩ずつ、確実に領土を削り取っている。
それなのに、王都には妙な熱があった。
急げ、急げ、という熱。
勝者の余裕ではなく、何かに追い立てられる焦りだ。
回廊のあちこちに白月教の僧衣が立っている。
祈っているようで、監視している。
見ていないふりで、数えている。
(増えたな)
セルドラは短く息を吐き、玉座の間へ向かった。
扉が開くと、空気が冷たく変わる。
ここは戦議の部屋ではない。
儀式の部屋だ。
高い天井。白い石壁。
正面の玉座にヴァルゼン王が座し、視線だけをこちらへ向けた。
若い王。
勝者の国の王のはずなのに、目が澄んでいない。
まるで眠りから覚めきっていないような、ぼんやりとした焦点。
セルドラは片膝をつき、報告をする。
「アスフェル北部戦線。魔物が介入。戦線は一時乱れたが、主導権は維持した。
損耗は軽微。撤退は戦術判断だ」
――“魔物介入”。
その語を含めても、玉座の間の空気は一度も揺れなかった。
驚きも、怒号も、ざわめきもない。
まるで最初から、
その出来事が“織り込み済み”だったかのように。
「……よく戻った、セルドラ」
その背後に、白衣の男が静かに立っている。
シグナ・テレメトラ。
柔らかな微笑。丁寧な所作。
言葉はいつも優しいのに、核心だけがひやりと冷たい。
「英断でしたね」
シグナが言う。
「神の御前で、無駄な血を流す必要はありません」
セルドラは返さない。
(無駄かどうかを決めているのは、神じゃない)
王が、確かめるように問う。
「……アスフェル北部戦線は、次で落ちるか?」
セルドラは即答する。
「落ちません。
こちらが押し返せます。敵の補給と士気が鈍っている。
このままなら、前線はこちらの都合で動かせる」
勝っている。
それを告げる言葉のはずなのに、玉座の間は軽くならない。
王は安堵するでもなく、眉を寄せた。
「なら、なぜ……急ぐ?」
その問いに、セルドラは一拍遅れる。
“急ぐ”という単語は、王が自分から口にしたものだ。
(王も気づいているのか)
だが、答える前に――
シグナが静かに前へ出た。
「王よ」
眠りを誘うような声。
「神の時は、人の都合を待ちません」
王の肩が、ふっと落ちる。
それが安堵なのか、降伏なのか、区別がつかない。
「……そうだな」
王が笑う。
作りものの笑みだ。
「神の時に合わせねば」
セルドラの喉が熱くなる。
勝っているのに、なぜ“合わせる”必要がある。
(戦争は手段だ)
(目的は、別にある)
セルドラは拳を握りしめ、声を抑えた。
「王。戦況は優勢です。
ならば、国の内を締めるべきです。僧衣が増えすぎている」
一瞬、静寂が落ちた。
シグナの微笑が、ほんのわずかに深くなる。
「忠義ゆえの進言、感謝します」
丁寧な言い方。
しかしその語尾には“触れるな”が混じっている。
王は、曖昧に頷いた。
「……そうだな。だが、今は――」
今は。
今は、という言葉が続かない。
代わりに、シグナが続ける。
「“迎え”の準備が先です」
セルドラは言葉を飲み込んだ。
ここで剣を抜けば、守るべきものを失う。
玉座の間を退出する。
回廊に出た瞬間、空気が少しだけ軽くなった。
その“少し”を作っているのは、ひとつの影だった。
柱の陰から、少女がひょい、と顔を出す。
ぶかぶかの衣の袖が長すぎて、手が半分隠れている。
アキナ・ミライ。
彼女はセルドラの鎧を見るなり、ぱっと笑った。
「おかえり。……って言っていいやつ? ねえ、疲れてない?」
セルドラは歩みを止めない。
「戻っただけだ」
「戻っただけって言い方、冷たっ。
ほら、勝ってるんでしょ?」
明るい。
わざと明るくしている。
城の重さに飲まれないための、彼女なりの防波堤だ。
「……で、またあの人、いた?」
アキナが小声で言う。
口調は軽いのに、目だけが少し鋭い。
セルドラは頷く代わりに視線を前へ向ける。
回廊の先に白月教の僧衣が二人。
見ていないふりをして、確かに見ている。
アキナが肩をすくめる。
「増えたよねえ。
勝ってるのに、なんでこんなに怖い顔してるんだろ」
「……聞くな」
「はいはい。聞かない聞かない。
でもさ、セルドラ――」
アキナは追いかけるように歩幅を合わせ、
いつもの調子で言った。
「王さま、最近ちょっと変じゃない?
“神”って言う回数、増えてない?」
セルドラの歩みが、ほんの少しだけ遅れる。
その質問は、正しい。
だが正しい質問ほど、この城では危険だ。
「……部屋へ戻れ」
「はーい。命令は聞きますよ、命令は。
でも、気をつけて。あの人、笑ってる時が一番こわい」
アキナは軽く手を振って、ぱたぱたと去っていく。
背中は明るいまま。
しかし、その背中が“逃げ道”を知っている背中ではないことを、セルドラは理解している。
窓の外は白い雲。
月は見えない。
それでもこの国は、そこに“神”がいると信じる。
信じさせられている。
セルドラは、玉座の間で聞いた言葉を反芻する。
――迎えの準備。
勝っているのに急ぐ理由が、そこにある。
戦争は、勝つためにしているのではない。
勝利は、儀式の前座にすぎない。
白月の下で、ヴァルゼンは静かに歪んでいく。
第五章 信仰の戦争
円卓の中央で、アスフェル王が静かに言った。
「……“迎える準備”だと?」
その言葉は、先ほどドロシーが口にした表現だった。
“ヴァルゼンは戦争をしているつもりじゃない。迎える準備をしているつもりだ”
会議室の空気が、一段深く沈む。
ロアンは膝をついたまま視線を上げる。
王の顔は怒りでも恐怖でもない。
決断を迫られた者だけが浮かべる、乾いた表情だった。
「迎える……何をだ」
将軍の一人が苛立ちを噛み殺して言う。
「神だの恩寵だの、そんなもの――」
「“何”かは掴めていない」
ドロシーが遮った。
断言ではない。だが、否定でもない。
「ただ、戦い方がそれを示している」
ドロシーは地図の一点、ヴァルゼン領北東の黒く塗り潰された区画を指す。
白月教が“聖地”として囲い、誰も近づけない土地。
「彼らは、勝敗より先に――“場”を固めている」
「土地を囲い、名を与え、立ち入りを禁じる。
教えで縛って、異物を排除する。……宗教の形で、世界を整える」
貴族が呻くように言った。
「整える……まるで、誰かを迎え入れる器を作るように?」
ドロシーは視線を落とさず、短く返した。
「……そう見える。だから厄介だ。理屈で止まらない」
将軍が机を叩く。
「なら、こちらが叩き潰せばいい。宗教ごと、聖地ごと!」
「“叩き潰す”ができるなら、とっくに終わっている」
ドロシーの声は静かだった。
静かすぎて、余計に背筋が冷える。
「白月教は刃で折れない。
そしてヴァルゼンは、彼らにとって都合がいい。
機械は武器じゃない。――“奇跡”を見せる道具だ。
白と灰の兵は、神の行軍に見える。
空から届く品は、祈りへの返答に見える。
人は恐れ、すがり、跪く。
そうして“自分から従う形”が出来上がる。
……だから厄介なんだ。
相手は、戦争で勝とうとしているんじゃない。
信仰で世界を固めようとしている。」
王が低く問う。
「目的は何だ」
ドロシーは迷わず答えた。
「聖地を中心に、支配を完成させることだ」
「その完成形の先に何があるか――正体は掴めていない。
だが、ヴァルゼンが今やっているのは戦争じゃない。準備だ」
ロアンの胸の奥に、戦場で感じた違和感が刺さる。
セルドラが、追撃を捨てて引いた。
勝ち負けより、損耗を避けた。
まるで“守るべきもの”が別にあるように。
王は息を吐いた。
疲労の吐息ではない。覚悟を固める呼吸だ。
「……つまり」
王は円卓を見渡し、ゆっくりと言葉を落とす。
「我々が迷っている間に、三国は順番に潰される。
そして残るのは、ヴァルゼンの“準備が整った世界”――そういうことか」
ドロシーは頷いた。
「はい。
アスフェルが倒れれば、次はイゼラ。
イゼラが崩れれば、レヴナスも飲まれる。」
会議室の誰かが、喉を鳴らした。
それは恐怖ではなく――理解だ。
理解してしまった時、人は逃げられない。
王は椅子を押し、立ち上がった。
「ロアン」
「はっ」
「イゼラへ走れ。王に直接会い、俺の名で告げろ。
この戦は領土争いではない。――国が“迎えられる側”にされる戦だ」
将軍が続けて立つ。
「レヴナスへも使者を同時に。速度を優先する。
礼節は後だ。今は一刻が命になる」
王は頷き、最後にドロシーを見た。
「お前も来い。
お前が知る“兆し”を、俺の目で確かめたい」
ドロシーは短く答えた。
「わかった。
ただし僕は王国の剣ではない。」
王はそれを受け入れるように、ただ言った。
「それでいい」
そして、王は会議室の全員に向けて宣言する。
「――三国同盟を結ぶ」
短い。だが、逃げ道のない言葉だった。
「今日からアスフェルは“単独で耐える”という幻想を捨てる。
疑いは飲み込め。遅れた分は、血で払う覚悟を持て」
円卓の間に沈黙が落ちる。
だが、それは先ほどの沈黙と違う。
迷いの沈黙ではなく、腹を括った者の沈黙だ。
ロアンは拳を握り、膝をついたまま言った。
「――命に代えても、必ず」
王は頷き、扉へ向かった。
その背に、誰も声をかけられない。
声をかけた瞬間、決意が揺らぐ気がしたからだ。
扉が開き、廊下の冷たい空気が流れ込む。
結束できなければ、ここは戦場にすらならない。
ただ静かに、席を奪われて終わる。
つづき
続きの章は、順次このページか紫族禁書庫(Grimoire)に追加されていきます。
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